KYOとおひげのサバイバル日記~3.11 東北地方太平洋沖地震発生!!~【3月11日(金)】ーおひげー14:40 twitter にこんな事を書いたところから全ては始まった…この日午前中に爺さんの確定申告を済ませ、上記つぶやきをネット上に書いて自身の確定申告に、翌日の福島での和太鼓ユニット閾の演奏の経費を取りにまずは涌谷の道場へと思い出発。信号で一度止まり、東北本線の陸橋を越え次男の通う小学校近くを通過したその時、パンクかな…?と思ったその後は運転どころではなかった。東北地方太平洋沖地震発生! 3.11.14:46あのつぶやきから6分後の事だった。揺れながら考えたのは家族との連絡手段。これだけ大きい地震では直後は携帯も繋がらなくなるし、まずは小学校へと進んだ。足がすくみ、ハンドル持つ手も震える中、下校途中の女の子たちが5人くらいブロック塀のそばにしゃがんで泣いていた。車からすぐ降りて「大丈夫だから!」と声をかけたら女の子は泣きながら「おんちゃんこわぐでおしっこむぐれる~」むぐれる=もれる の方言だ。最近聴く事の無いその響きに意外にも落ち着きを戻す事が出来彼女等を連れて校庭に走り保護者第1号の到着となった。その後も続く余震に雪まで降って来て、子供たちは不安な目をしていたが、一番不安な表情だったのは低学年の先生たち。下校させたばっかりの子供たちの事が心配だったのだ。そんな一人の先生と目が合った「レオト君のお父さんお願いです。駅前、駅裏あたりまで子供たちがブロック塀の下敷きになっていないか観て来てもらえませんか?」「わかりました。では子供連れて行っていいですか?」「だめですこれから点呼取ったりしますのですぐ行ってください!」軽く人質状態の不安そうな息子を置いてパトロールに出かけた。もう一つの心配は爺さんだった。車を走らせ東北本線の陸橋に向かうと橋と道路が50cm以上ずれていて向こう岸に行けない。混む前に別ルートを通り駅前へ、その帰り家に行くとタンスや額縁が廊下に散乱していた。爺さんの無事を確認し、駅裏ルートで学校へ戻り、通学路の状況を伝え次男を引き取り帰宅。途中交差点で自動車学校のバスの先頭に乗っている長男(KYO)を見つけ間もなく帰ってくる事を確認。電話は案の定不通だったが、この間twitterのおかげでかみさんと長男、3Dのある程度のメンバーとは安否確認がこの間に出来ていた。停電していたのでガラスの破片や倒れた家具を直し、寝床をリビングに設置し、舞台道具バッグから電池・ライト・マジック・用紙・充電器等、マネージャセットからは常備薬などを含め一瞬で対策本部をリビングに作り、ラジオをセットして完了。みっちゃんPも家を訪ねて来てくれて軽く道路情報などを話た。貯水に関しては風呂掃除は次男の仕事。普段は17:00頃に行うのだが何故か爺さんが水を抜いていた…………。この水と爺さんはその後大きなキーワードとなる。余震にしては大きく揺れる地震に耐えながら、ラジオから流れる津波の凄さと犠牲者の数に大きな不安を抱えながらかみさんも職場(特別養護老人ホーム)から戻りサバイバル生活はスタートした。ーKYOー自動車学校にいるとき東北・関東大震災発生。震度7の大地震がおきて、石巻、南三陸などの海では大津波が発生!電気が止まり、水道が止まり、ガスが止まり、サバイバル生活スタート。地震発生初日は、リビングとおじいさんの部屋の掃除。日が落ちる前に、ありったけの食料と懐中電灯、ロウソクと布団をリビングに集めた。食料調達をしに近所のコンビニへ行くとすでに長蛇の列が.........制限があるがパンと電池を購入。日が暮れて停電初日の夜、仏壇のロウソク立てを2本並べて明かりを灯す。初日の夜の飯はその日の朝余った冷えた白飯とツナ缶。夜は町内がどれだけ被害にあっているのかを見にいき、旅館に泊まっているように川の字になってリビングで寝ました。親父(おひげ)のいびきがうるさい…が、それがまた安心でもあった。
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