量の血を流しつづ


Updated By : April 11, 2018 5:00:26 PM JST

量の血を流しつづ

  白い靄《もや》の中に新吉の影があった。

  目も鼻もない全裸の女がその前に立っていた。

  右腕を失った傷口から、大量の血を流しつづけながら、新吉が呼びかけた。

  「オ、オシラサマ……ここはどこでしょう」

  ——江戸の地の底に昔からある産霊山《むすびのやま》の芯《しん》の山です。

  「芯の山」

  よろめきながら新吉が言う。

  ——そうです。お前がヒの者であることは最初から判っていました。

  「この俺《おれ》がヒ……」

  ——そうです。お前は気づかずに芯の山ヘワタったのです。

  ワタリとはヒの特異体質をうけつぐ者にだけ許されたテレポートのことであった。

  「し、芯の山へ願えば何事もたちどころに叶《かな》えられるとか」

  ——そのように伝えられて来ましたそうな。しかし嘘《うそ》でしょう。

  「嘘……」

  ——生きとし生けるものの願いを受けて神につたえ、明日を定めるのが産霊山《むすびのやま》の役目です。だがそれなら、なぜこのような私の体が人並みになりませぬ。地の底に捨てられて幾とし月、私は祈りつづけて来たのですよ。

  「夢か。芯の山はあわれな人間の夢だったのか」

  ——いいえ、夢とは限りません。芯の山はやはり明日を造っているのです。だが生あるものの数は余りにも多く、その明日への願いもまた限りなく多いのです。どんな強い願いも、他の願いの数の多さには勝てませぬ。数多くの願いのひとつとして、ほんの少しだけ叶えられるだけなのです。

  「だが、水野忠邦たち強い者の願いは叶えられている」

  ——いいえ。あの者たちはたしかに芯の山の秘密を手に入れはしました。芯の山が永田馬場の真下にあり、真田家が守るあの社《やしろ》でなくても、祈れば通じることを知ったのです。けれどもあの者たちの願いも、私やお前の願い同様、ほんの少ししか叶えられぬのです。だが人間とは愚かなもの……あの者たちが芯の山のことを手に入れたと知ったとたん、恐れて従ってしまうのです。神が叶えたのではなく、人同士が叶えてしまうのです。真田家の安泰も同じことで続いています。本当はみな芯の山など要らぬのです。

  「しかし、一身の出世や一家の安泰と、貧しい人々の祈りは違う。餓《う》えず、ひでりがなく、はやり病いで死なぬことは……多くの人々、ほとんどの人々の願いではありませんか。なぜ貧しい者に芯の山を渡さぬのです。たちどころに願いが叶うという夢だけでさえ、見させようとはしないのだ」

  ——それが人の本性です。誰も貧しさの苦しみからのがれたがる。うまくのがれた者はそのしあわせを手離したがらぬでしょう。だから貧しい者が近づくのをきらうのです。もっと貧しい者が大勢いることで幸福に思うのです。人の世のしくみです。

  「人とは貧しいものだ。盗み、殺し、犯し、おのれだけはしあわせになろうとする。俺はもう死にます。汚い肉から離れられることを、今は喜んでいます」

  ——たしかに、もうすぐお前は死ぬようです。私はお前がうらやましい。私たちは幼いころから仲よしでした。姉弟なのですよ。

  「えっ……」

  ——淀屋《よどや》辰五郎というのが私たちの父の名です。辰五郎はヒの者です。だがヒはちりぢりになって、もう自分をヒだと知る者も少くなりました。辰五郎も私を母に産《う》ませてはじめて自分がヒの血をうけついだ人間だと知ったのです。だがこんな私の体をみて恐れおののきました。不具者を産ませたことを恥じ、古井戸へ捨てたのです。私はこの江戸の地底にいた大人のオシラサマに救われて、それ以来ずっとここに住んでいます。その次生れたのがお前です。辰五郎は私でこりて、男女の別なく生れたら捨てることにきめていたのです。お前は井戸掘の重吉に拾われて育ちました。私が幼いお前を念力で呼び、二人は井戸の中で遊ぶようになったのです。

  「俺の姉か……だがもうそんなことはどうだっていい」

  新吉は靄の中で上体をゆらゆらとさせながら言った。「ここに集められた明日への願いはどこへ行くのだ」

  ——月です。そして月からもっと遠い星へ届きます。

  「ああ……」

  新吉は絶望的に呻《うめ》いた。「やはり夢だ。ひでり洪水《こうずい》、地震にはやり病い。貧しい者たちのそうした責苦をとり除けるかと思ったのに」

  ——でも長い間には、そのような願いもすべて叶えられましょう。

  白い姉はそう言ってうしろを向くと指さした。オシラサマの念力のためか、地底の穴にこもった白い靄の明るさが増し、あたりの様子がはっきりしはじめた。

  ——ここには場所と場所の遠さというものがありません。上の世界とはまるで違うのです。私たちがよく遊んだ妙祐寺の古井戸から誰かが掘り進んだとしても、この場所へは行きつきません。ここは浮世の外にくくりつけられた別の世なのです。みなさい……。

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Author : dinnerwith | 4/11/18 5:00 PM | Public
Tags : Sports , Animal
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